1954年、パイナクルのラスタ・キャンプが、彼らの蓄えを見つけた警察によって破壊され、彼等は強制的に立ち退かされた。パイナクルの丘を下りてキングストンに来た多くのラスタマンは、西キングストンの人々と結びついていった。伝統的な民謡にラスタ文化がのり、西キングストン地域では、ジャーを称えるために、ナヤビンギとして知られる新しいドラム・スタイルが確立されつつあった。50年代には多くのラスタ・キャンプがあり、グランデ―ション(真理を探る)と呼ばれるラスタの集いで、ドラムと詠唱、討論が行われた。
1958年3月のナショナル・ナヤビンギという集会は、この時代における、全島初の重要なイヴェントであった。これによって多くの人々、特に若者にラスタファリアンの信念と音楽が紹介された。そしてこの時代に、ラスタの生き方、自然と共に生きる、アイタル・フードなどといった事柄が定義付けられていった。
1960年には西インド大学の教授によってラスタファリ・ムーブメントが調査され、メンバーを迫害しないようになどといった提言と共にノーマン・マンリー首相に提出され、ジャマイカ政府の助けによってラスタファリアンの使節団がアフリカへ送られるまでになった。
60年代、多くのスカのリーダー達はカウント・オジーのラスタ・キャンプに集って音楽を創っていた。これらのセッションにおいて管楽器のメロディーがラスタのドラム・スタイルと合わさってスカが発生したのだ。スカの音楽性は反逆的すぎて、当時のジャマイカでは、ラジオでかけることが禁止された。スカはゲットーのもの、貧しい、虐げられた人達の音楽だったのだ。 この頃にはナヤビンギのドラムの中でも特にリピーターが録音スタジオで頻繁に使われるようになり、それと共にラスタのメッセージも広く伝えられるようになった。こうしてラスタファリアンの教えは、ジャマイカの音楽シーンや人気ミュージシャン達に多大な影響を与えていく。
1966年の夏、音楽がスロー・テンポになり、ロック・ステディーに変化していく。ロック・ステディーではベースが強調された。これは、心臓の鼓動を奏でるラスタのベース・ドラムを電気楽器で演奏したものだった。この頃、ラスタファリの影響による新しいメッセージが歌に込められるようになり、そのメッセージは多くの若者を目覚めさせる大きな衝撃となった。
1966年4月、ハイレ・セラシエがジャマイカを訪問した。大勢の人達が皇帝を待つ中、皇帝を乗せた飛行機が着陸した途端に、それまで降り続けていた雨が上がったという。政府による皇帝訪問の催しには、何十人かのラスタファリアンが正式に招待された。この時ジャマイカ史上初めて、公式の場で、様々な種類、階級の人達が交じり合ったのである。この時には既に大勢のラスタがいたが、これを期に、さらに多くの若者がラスタファリの信念を持ち始めた。(リタ・マーリーもその一人で、後にアメリカの母の元から帰国したボブ・マリーもそれに続いた。)
60年代後半までに、ラスタファリアンの活動は、ジャマイカの音楽、そして文化全体に影響を与えるようになっていた。大勢の若いシンガーやミュージシャンがラスタファリの信念を持つようになった。 こうして1968年には音楽が再び変化した。益々スローに、重たくなり、ベースは益々強調され、そのメッセージは益々危険になっていった。これがレゲエの始まりである。 そしてその後、ウェラーズをはじめとするラスタ・ミュージシャン達の音楽、レゲエが音楽的にも世界で認められ、そのメッセージはジャマイカから世界的に広まっていった。その頃はちょうど、西洋社会においても多くの若者達がそれまでの体制、人種差別などに疑問を持ち、行動を起こし始めていた時代と重なっていた。
小さなカリブ海に浮かぶ島国で発祥したラスタファリ・ムーブメントはこうして世界中に広まって、現在ではカリブ諸国、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ各国、アフリカ各国、オーストラリア…そして日本に至るまで、全世界にあらゆる人種のラスタファリアンが存在するまでになったのだ。