1932年、ジャマイカのラスタファリアン・ムーブメントは、レオナルド.P.ハウエルがラスタの生き方についての基本的な考え…ジャマイカ政府や白人の圧力への反対、アフリカ本国帰還への準備、至高の存在、唯一の統治者としてのハイレ・セラシエへの知識などを説いて始まった。そのスピーチが扇動的であり、人々の英国王への反逆心を煽り、公衆の平和を邪魔したとして、彼は幾度となく逮捕された。植民地統治下の当時は、多くのラスタファリアンが刑務所や精神病院に送られ迫害されていたのだ。当時の裁判官が彼等のことを「厄介者ラスタファリの人達」と呼ぶ中、ハウエルは一貫して「ラス・タファリが生き神である」という主張を曲げることはなかった。
1936年、ハウエルとその後継者達が企画していた祝賀の場で、彼等が赤―金―黄の旗を掲げると同時に警察が攻撃した。旗は燃やされ、食料は没収され、ハウエリストは殴られ虐げられた。これはその後に引き続き行われていくラスタファリアンへの攻撃の兆候であった。
初めてマスコミによってドレッドロックスが世間に紹介されたのは、1937年、ある記者が当時多くのラスタファリアンが暮らしていたダングルを訪れた時の「さながら南の海の人食い人種、何年間も伸ばしてマットのようになった髪をした人達」というレポートだった。
ハウエルは1930年代終わりにパイナクルの丘にラスタ・キャンプを創設した。パイナクルは40年代には経済的にも成功を治め、3000人以上の人々が地方自治の精神の元、100エーカー以上ある土地で一緒に生活し、労働していた。彼等は靴を作り、塗料を作るために石炭や石灰岩を焼き、農業や牧畜を行っていた。このラスタ・キャンプはラスタ誕生の象徴とも言えるものだった。