SITUATIONinJAMAICA ジャマイカは1494年にコロンブスによって発見された。その頃はアラワク・インディアンと呼ばれる原住民が住んでいたが、1502年から1655年に渡るスペインの統治によって彼らは絶滅させられた。その後イギリス領となる前に、既にアフリカ人奴隷が使用されていたが、さらにイギリス人によって西アフリカから何万人もの奴隷がジャマイカに連行され、砂糖きび農園で労働させられていた。ジャマイカの奴隷制度には人間らしいところが全く無く、一握りの強欲なプランターが何千もの奴隷に権力をふるい、巨額の利益を上げ、冨と権力を得ていた。彼らは自分達の宗教を奴隷と共有することも頑なに拒んだため、奴隷達はアフリカの神々を崇拝し続けていた。このような中、1700〜1800年前半代に非国教会派がジャマイカに到着し、土着宗教とこれらのキリスト教が交じり合っていった。
 逃亡し、丘陵地帯に住み、イギリス人と戦ったスペイン人によって連れてこられた奴隷と、彼らに加わった初期の奴隷はマルーンと呼ばれ、彼らは長年に渡ってイギリス人を苦しめ、1738年、和平交鈔が交わされた。現在のジャマイカの日常では500ドルのことを"ワン・ナニ―"と呼んだりするが、これはジャマイカ最新のお札、500ドル札にマルーンの指導者の一人であるナニーが印刷されているからである。
 19世紀は世界的に変革期で、フランス革命が起こり、イギリスでも奴隷制反対協会が人身売買に終止符をうとうとしていた。このような情勢と、それに反対するプランターの間での論戦をジャマイカの奴隷達も見守っていた。この頃には大半の奴隷もキリスト教徒になっていて、指導者も出てきていた。こうして1831年、サム・シャープの反乱が起こった。多くの地所が焼き払われたが、結局イギリス軍によって多くの奴隷が虐殺された。
 1834年、奴隷制度が廃止され、賃金労働による年季奉公制度が登場した。1865年には国の状況を変革させようと、モラント・ベイの反乱が起こるが、これも指導者達の縛首刑で幕を閉じている。しかしこの結果、202年に渡るジャマイカの代議政体は終わり、直轄植民地となった。
 1884年には立法議会メンバーは全て選任されるようになるものの、白人が圧倒多数で、黒人に対する無関心と蔑視が続いた。植民地時代を通じて、彼らは自分達をとりまく生活にはふれることなく、イギリス文化を教育されていた。教育カリキュラムの中心は聖書であり、聖書を文字通りに信じるキリスト教根本主義の観点から厳密に指導されていた。
 1920年にマーコス・ガーヴィーが出てきて初めて、黒人が政治意識を示したのである。北米に住むジャマイカ人からジャマイカの国民に向かって「国家意識」を自覚せよとの勧告が出されると、再び反乱が起こり、現在のジャマイカになるまでを導いた指導者、ノーマン・マンリーとアレキサンダー・バスタマンテを生み出した。こうして長年に渡る白人支配、大きな階級社会が続き、ジャマイカがイギリス連邦に属する独立国になったのは1962年のことだった。

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