何世紀にも渡って、一億人のアフリカ人がヨーロッパ人によって奴隷として故郷アフリカから連れ出された。ヨーロッパ人は、アフリカ人奴隷から彼等の言語と宗教を奪った。彼等の土地は文明の無い未開の地であり、だから白人が彼等をそこから連れ出し、キリスト教を教え、文明化したのだという洗脳によって、彼等は謙虚に服従する奴隷となっていった。彼等は読むことを許可されていなかったが、ある人達は英語を覚え、隠れて聖書を読み始めた。
聖書の始まりの書、創世記の2章13節で、エデンから流れる川は4つの川に分かれ、その一つはエチオピアの地を流れるギボンであるとしている。彼等は、エチオピアは人類発祥の地の一部であるという記述を読んだのだ。…人類発祥の地で生まれた我々が、どうして白人に劣っているのだろう…?彼等は光を見て読み進んでいった。そして民数記12章、モーセとエチオピア人女性の結婚の場面にたどり着く。アロンとミリアム(モーセの兄姉)は彼女がエチオピア人であることからその結婚を批難する。ミリアムはモーセを批難したことから主によって皮膚病という罰を受け苦しんだが、モーセが主に彼等を許すことを懇願し、ミリアムは回復する。
聖書は、彼等の故郷と似通った土地を記述していた。聖書の中の習慣や名前、物語は家族のような響きがあった。彼等は詩編68章31節で、王子、王女はエジプト(アフリカ)から出てきて、やがてエチオピアが神に向かって手を伸べるという個所を読んで希望を抱く。なぜなら彼等は、以前アフリカの王子であったということを知らされ、神が彼等を解放するすることが確かとなったのだから。
聖書に随時出てくるエチオピアについての照合は、アフリカ人が自らの教会を形成し、それらの教会にエチオピア名をつけるという影響を与えた。南米とカリブにはエチオピア名を持つ教会が200以上もある。
19世紀、アフリカ人に英語が増大し、マーコス・ガーヴィーなどといった優秀なエチオピア史の学生が現れた。彼等はギリシャの歴史家によって書かれた見聞を与えられた。そこでは全アフリカをエチオピアと照合していた。彼等は、ギリシャ人がエチオピアを「神々がそこにいることを好まれる地」、エチオピア人を「批難すべき点の無き人種」と語り、その他の研究書では、文明の発展について「ナイル川から発祥し、エチオピアからエジプト、そしてギリシャ、ローマへ」と記述されていることを知る。これら意外な新事実は、唯一エチオピアを除く、アフリカ内外の全アフリカ人が白人支配を受けていた時に暴露されたのだ。エチオピアは自由のリーダーであり、アフリカの独立とそのプライドの砦であった。
さらに1896年、エチオピアはメネリック2世皇帝によって、イタリアからの侵略を退けた。このニュースは植民地法下にいたアフリカ人にも広まり、現代のアフリカ主義の指導者達を生み出し、あらゆる土地でアフリカ人の自由への希望が燃え上がった。
歴史上最大の黒人活動集団を創り、1920年代、ジャマイカ、カリブ海諸島、中米、北米でそのメッセージを広げたジャマイカ出身のマーコス・モサイア・ガーヴィーは18世紀の聖書を引用したエチオピアニズムをスピーチや書に使用し、多くのアフリカ人に多大な影響を与えていった。
1930年11月、エチオピア王子ラス・タファリ・マコネンが「ハイレ・セラシエ(三位一体の力)1世皇帝陛下、王の中の王、主君の中の主君、ユダ族の獅子王」として王に即位した。現世の祝典とは思えない、伝説の帝国の荘厳をおびたセント・ジョージ大聖堂で行われた戴冠式には各国の代表者やジャーナリストが集まり、聖書を引用した即位のニュースは世界中に流された。彼が聖書にあるソロモン王とシバ女王の血統であり、ソロモン王朝225代の王であるというニュースは、全世代のアフリカ人の想像力を動かし、古代エチオピアへ目を向けさせた。
1935年、2度目のイタリア軍によるエチオピアへの侵略は、世界各国でエチオピアニストの波を生み出すこととなる。拡散された彼等にとってこの攻撃は、アフリカ人のプライド、文化的な主権に対する攻撃を意味したのだ。ハーレムでは1000人のアフリカ系アメリカ人による行進が行われ、彼等がエチオピア人のために戦うことを許可する嘆願書にサインすることをアメリカ政府に求めた。トリニダードではこの叫びがカリプソとなり、西インドの海の男達によって港から港の黒人世界へと運ばれていった。音楽は常にアフリカ人文化に必要不可欠なものであり、エチオピアを支援する人種的プライドを分かち合う形になっていった。 そして英国植民地支配下にあったジャマイカでは、世界で最も知られるエチオピアニズム、ラスタファリアン・ムーブメントが始まっていた。